平和という言葉と個人について

平和という言葉を多くの人が使うけれど、その奥行きを考えると皆の使う意味が簡単には共通しない言葉だと思い、
私の本質は変わらないにも関わらず前のブログタイトルから変わる一因にもなっている。
含意が簡単に共通しないから使わなくてもいいくらいなのではと思い。

平和の最終達成点を皆の心の充足と言うなら、

よく有事や平時といった見た目上わかりやすいところで、有事は平和ではないことが多いだろうが、平時たとえば戦争状態でなければ平和なのかというと、
戦争状態ではなくても日常のなかに、狭められたなかに地獄は存在し、それは平和とは言えないだろうし、そこからひいては戦争等の表面化したものにまた展開していったりする。

また平和というものについて私以上に本気で考えたことが無いにも関わらず、それぞれの挫折から平和は無理だと言ってしまうことが普通にある。
それは30年位本気で動いて考えてから言ってほしいですが。

たしかに、人間は変動するので恒久的な平和を保証するのは無理だろう。
だから必要なのは、なにかしらでずっと調和がとり続けられるということであり、平和というのは個人と世界との調和の集合体という流動的に成されるものと言えるでしょう。

こんなふうに考えてくると、平和という言葉に込められるイメージが人それぞれで異なりすぎるので、使わなくていいくらいだと思えてきて、代わりに「調和」などで良いのではないかと。
世界平和の代わりに世界調和など。まだ聞き馴染みがないけれど。

それでもって、大まかな調和をとるものとして政治的な次元の営みも必要だけれど、根本的には個人の営みからの調和が必要だと考えられるに至るわけです。

ここから私の、皆さん個人個人のための普遍的な伝統文化という調和の装置づくりが行われています。