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仏教や禅、と言っても宗派は色々とあるけれど、ベースの部分では異論ない。
多くの人が言っているからという判断基準で知識を取り入れるのでは、本当の理に辿り着きにくいのではないか。
それはその人達にとっては今を乗り切るために意味があるけれど、自分にとってや世界中の人や様々な時代においても普遍的な意味のある理ではないことがあるだろうと思う。
生きる道や価値観等を作り上げるのではなく、そもそも自然に用意されている理と、それに基づく生きる道や価値観に気づくということ。悟るということ。
それがわかったときには一言で、(真に)あるがままを見つめるだけということになる。
それに異論ない。
そこに自力で思索し到達することを案内しているという点で、仏教は宗教というに留まらず思想、哲学、科学に位置づけられている。
科学的により深いものの見方、理の見方を案内している。
私も思想としての仏教に異論を感じたことはない。
そういった仏教や東洋思想が普遍的思想を包含していると考えている。
いま科学の様々な分野が更に深まるために、仏教が2000年前に到達している真理の正しかったことを次々と知るばかりであることに気づき、仏教を追いかけている。
(ヨガや太極拳もそうだが)
それは踏まえてなお、なぜ吟楽をやるのかと言えば、自分のことはもう終わっていて、もはや日常が神事のようなものになっていて、あとはひとのヒントになるものを出来ればと思うから。
動的な実践をもって、アニミズムもその射程に収め、仏教を越え、宗教を越えてしまったもの、超宗教文化ということになるか。
ただ、そんな言葉によるラベリングの先、圧倒的な実践による実体感へ到達してしまっているので、こんな論議にはもうどこか興味がない。
それが必要な世の中だから、それが一番自分を満たすから、広い意味で言えば仕方なくやっている。自分のためだけであれば、高いコストをかけて自主公演をしたり海外へ行く必要はない。だけど自分のためはもう満たされているからやる。
好きやトラウマからやって頑張っているわけではないということ。
この宇宙が出来て138億年として、その末の最先端に生きる自他のあらわれの全てを奇跡的な意味あるものとして見ている。あるがままを見ている。
また、理としての心身一元論を実践にて実際に繋ぐ知見として身体意識〜体性感覚的意識〜触覚を仲立ちとして用い、明晰である。
だからこそ吟楽を見出すことになるとも言えるかもしれない。
触覚で味わうだけで自分を動かす理に気づくということ。
素朴に気になることの根本を追求してきただけ。それが先人の知見のお陰も受けて、更に進んだものに辿り着くだけ。
人間の知能の業というものがあったからだけど、他の生物にとっても意味があることを生み出せるかもしれない。
以上、このあたりが私を語る言葉の基本すべてではないかと思う。
多くの人が言っているからという判断基準で知識を取り入れるのでは、本当の理に辿り着きにくいのではないか。
それはその人達にとっては今を乗り切るために意味があるけれど、自分にとってや世界中の人や様々な時代においても普遍的な意味のある理ではないことがあるだろうと思う。
生きる道や価値観等を作り上げるのではなく、そもそも自然に用意されている理と、それに基づく生きる道や価値観に気づくということ。悟るということ。
それがわかったときには一言で、(真に)あるがままを見つめるだけということになる。
それに異論ない。
そこに自力で思索し到達することを案内しているという点で、仏教は宗教というに留まらず思想、哲学、科学に位置づけられている。
科学的により深いものの見方、理の見方を案内している。
私も思想としての仏教に異論を感じたことはない。
そういった仏教や東洋思想が普遍的思想を包含していると考えている。
いま科学の様々な分野が更に深まるために、仏教が2000年前に到達している真理の正しかったことを次々と知るばかりであることに気づき、仏教を追いかけている。
(ヨガや太極拳もそうだが)
それは踏まえてなお、なぜ吟楽をやるのかと言えば、自分のことはもう終わっていて、もはや日常が神事のようなものになっていて、あとはひとのヒントになるものを出来ればと思うから。
動的な実践をもって、アニミズムもその射程に収め、仏教を越え、宗教を越えてしまったもの、超宗教文化ということになるか。
ただ、そんな言葉によるラベリングの先、圧倒的な実践による実体感へ到達してしまっているので、こんな論議にはもうどこか興味がない。
それが必要な世の中だから、それが一番自分を満たすから、広い意味で言えば仕方なくやっている。自分のためだけであれば、高いコストをかけて自主公演をしたり海外へ行く必要はない。だけど自分のためはもう満たされているからやる。
好きやトラウマからやって頑張っているわけではないということ。
この宇宙が出来て138億年として、その末の最先端に生きる自他のあらわれの全てを奇跡的な意味あるものとして見ている。あるがままを見ている。
また、理としての心身一元論を実践にて実際に繋ぐ知見として身体意識〜体性感覚的意識〜触覚を仲立ちとして用い、明晰である。
だからこそ吟楽を見出すことになるとも言えるかもしれない。
触覚で味わうだけで自分を動かす理に気づくということ。
素朴に気になることの根本を追求してきただけ。それが先人の知見のお陰も受けて、更に進んだものに辿り着くだけ。
人間の知能の業というものがあったからだけど、他の生物にとっても意味があることを生み出せるかもしれない。
以上、このあたりが私を語る言葉の基本すべてではないかと思う。