音採り・その内の一節
音を採集する。それを持ち帰り、聴き直すことで自己の内部が見えてくる行為でもある。
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先日お送りした音源の中で、振返るに特に僕の琴線に届いているように思うのは、 蛙経、蛙響、おしゃべりの蛙などで、何故そうなのかと思うに、 僕が備えている、自然の音を声と認識する、自然の営みと自己の心とを分けていないという、 人とそうでないものといったカタチの違いをこえるという、 精神文化というか認識文化、それによるものかなと。
これは僕に限らず東洋的、日本的なもの、感性で、普遍性があって、 吟楽では基本的にそういう認識文化を伝えたいのだ、 という核心に自分の中で重なり、気になる音なのではないかと。
人間が自ら生み出した認識の文化というものが、人間自体の認識を本当に変えてしまうということがあるのではないかと。
世界には列強の帝国主義と、それと絡み合った一神教が席巻してきた歴史があり、 さらに腑分けすると、中国の、世界の中心はわが国であるという中華思想と、 欧米諸国、特にルーツたる城塞都市文化から生まれた、壁の外と内のものを分け、 人間を自然の一部と見るのではなく切り離し、壁の内に住まう者には住まうための歯車としての振る舞い責任を求める、 その精神的雛形が心と身体(自然)は別であるという心身二元論を進めた、 そうした違いはあれど、 ユダヤ、キリスト、イスラムなどアブラハムの宗教は、この星は神が人間のために与え、 その他の生けるものは、その名の元にとって食べてよく、産めよ増やせよと言ってきた。
最早その結果としか思えない経緯があるけれど、 日本人が自然音を聞くと、脳の中で人の声を聞いている時と同じ反応が現れるが、 欧米の人々が自然音を聞いてもそうした反応が無い、 といった研究もあった。 日本人にとってはまさに、岩にしみ入る蝉の"声"なのだと。
僕はある意味で、人間は本当のけだものに戻ればいいのではないか、と思っています。
こうした、ただ万象を盛り込みましたというあり方とは違う、吟楽の方向性があるだろうなと思います。
人間がそれ以外の生物をけだものと呼び、時に人間に対して「このけだもの」とネガティブなニュアンスで言うけれど、 それは、けだものと呼ばれている人間以外の生物の実態をわかっていないのではないかと。
田んぼ、稲作は弥生時代から日本の地に入ってきたものだけれど、今やそこに文化も生態系も出来ていて、 きっと田んぼにひしめく蛙たちは、田植え行程の中で土中に切り刻まれ、骸、肥やしとなり、 それでもそれを上回る繁殖で、精を放ち、命の宴を謳歌している、その他アメンボやら鳥やら、 ここにはビオトープ、一つの宇宙があるなと。
また、「葉擦れ雨宿り」も気になるところ。 音源自体のクオリティを省察できてはいませんが、 人間にとってこのレベルの雨は、雨宿りをするレベルで、沈思にいざなう意味合いがありはしないかと。
だとすれば、開場時の場内BGMにこういう雨的なものはどうだろう?などと思ったりしました。 雨がひいて踊りが始まる。
無音の場内に昨日今日顔を合わせたばかりで気もとりどりの場内係の人の声や、客席のおしゃべりだけが響くのを、 むざむざ放置するより出来ることがあるのではと思うところがあります。