福島にて

この度の旅で、福島を会津、中通り、浜通りと一通り踏破したことになる。

東日本大震災から原発問題、そして江戸明治の転換として150年となる戊辰戦争、西行、宗祇、芭蕉の辿った陸奥の入口たる白河の関にも立ち返る、未来への旅であった。

浜通りの帰還困難区域を訪ね、いわき市にて出演をしてから数年を経るが、浜通りの風光明媚な素晴らしさもさる事ながら、この度それ以外の地域を旅することで、福島の全貌とその馥郁たる豊かさに触れる事となった。


福島会津藩は徳川方として新選組を預かり戊辰戦争の激戦地となる。
白河にも戊辰戦争の跡あり、転戦会敵した足跡が福島の方々に存在する。城下町に見られる、外敵侵入を阻む鉤型の道を抜け、小峰城址は往時の威容を十分に感じさせる切込接の石垣と復元された三重櫓で迎えてくれた。

中通り北上の道すがら、須賀川に立ち寄り「特撮の父」円谷英二氏の故郷として整備されたミュージアムを訪ねた。第五福竜丸事件からゴジラが生まれ、科学と畏れるべき自然観とが交錯する時代の申し子としての御仁であったと思う。
それを収容する地域交流施設tetteは震災後に建設され、現代の建築デザインをして地域交流の創出をありありと目の当たりに出来る、人の流れを形成し繋がりを強める特筆すべきものとなっていた。




そして郡山。新幹線駅と在来線が交差する地点として賑わい、乗継ぎで幾度か訪れたるが今回は長めに逗留し路傍に融け込む。
ここで郡山ブラックなるラーメンと出会い、白河では手打ちでちぢれた平中太麺の白河ラーメンを食すなど、思わぬラーメン旅ともなった。支那そばとして始まったラーメンは日本での進化を遂げ、各地の地域性を持つソウルフードとなった。

ところで、現代人としての私が人類史を辿るそぞろ歩きの旅の友、グーグルマップのナビは最短経路を案内してくれるが、最短即ち斜めの道が必然として増える。
斜めの道といえばドラマがある、なぜなら新しい道は測量の発達により机上で方位や単位の整列を基に描かれ碁盤の目となるのに対し、斜めの道はより古くから生活の要衝を繋ぐなどして在るからだ。
よって好く斜めの道を往くことにしている。


それから猪苗代湖の近く、観音寺川の桜祭へ。以前に見た宮城県の白石川堤一目千本桜も圧巻だったが、ここは川の幅が渡り石で行き来出来る程にサイズ感が手頃で、山河と桜を一掴みに出来るバランスの良さを感じた。

花が散るまで葉が出ない、ソメイヨシノと言えば江戸期に生まれた人為のクローン植物であり、種子による存続はならず接ぎ木などして人手がかからねば絶える。古来の花見は梅の花であった。ソメイヨシノが存在するということは、そこは人の手が入った場所であるということを意味する。
日本で自然と思う光景ではまた、大半の杉林というものも戦後の材木不足で生育回収が早いということで植えられたものだが、安い輸入材の台頭で採算上伐採されず今は花粉症を生み出している。

猪苗代駅から徒歩でしばし農村を抜けると、野口英世氏の生家跡と共に記念館が在る。
この農村から海外に出てゆきそのまま国際人としてアフリカに没した、世界的医学者。そこには数奇な時代の巡り合わせもあったが、生まれてすぐに手指が動かなくなる火傷をして、それでも生きていけるように学問をとの親の心があった。その背景を間近に感じることの出来る場所であった。


会津方面へ。この一帯は戊辰戦争での焼失はあったが、大戦の空襲には見舞われなかったため、蔵や明治大正期からの大店などがよく残っている。

喜多方では全国的に有名となったラーメンの店舗数の多さに驚く。また名峰から注ぐ清い水があり、酒等の醸造産業が盛んであったために蔵が多い。欅の巨木から切り出された二枚で十間尺の廊下等、豪壮さと無傷の保存状態や、江戸から続くような酒蔵の点在に秀麗を見る。


日暮れを前に会津若松に入り湯浴み、新選組名士の墓前に手を合わせ、とある店にて一献。会津の郷土料理を頂いた。
風土の特色のあらわれた清廉なる滋味、内陸ゆえ京と通じるが身欠きニシンを使ったもの、淡麗の出汁に麩や海産乾物を盛った「こづゆ」、水清き蕎麦処ゆえの蕎麦の実の吸い物等に辛口の清酒を併せる。土地の心と呑み交わした気分がした。

戊辰戦争で焼失した鶴ヶ城、復元前の此処が土井晩翠氏の歌詞「荒城の月」の原景だという。見事な堀と八重の桜が迎えてくれた。

翌日は城址公園に匹敵する武家屋敷を訪ね、会津の士道の奥行きを感じたのち、近傍にて水そばを頂いた。霊峰から湧き出ずる名水のみで蕎麦そのものの味を食す。

そこから白虎隊自刃の地、さざえ堂、刀疵と弾痕残る滝沢本陣と経て、福島の旅は日本を古来よりの精神的片輪の側から見られるようであり、未来への準備をするに相応しいものを感じられた。

福島の旅を是非お薦めしたい。